vol . 4 指揮者編[小林研一郎 日本フィル桂冠名誉指揮者]
いよいよ指揮者編です。
オーケストラのなかで、指揮者はどのような役割を担っているのでしょうか。
今回は桂冠指揮者の小林研一郎さんが、ご自身のご経験なども交えながら
お話して下さいました。
――指揮者になろうとしたきっかけは、何ですか?
10歳の時にベートーヴェンの《第九》を聴き、作曲家になろうとしました。そして、東京藝術大学の作曲科に入ったのですが、自分のやりたいことは作曲ではないなと感じ、2年間の空白があり、もう一度藝大の指揮科に入り直しました。その頃、すでに30歳を過ぎてしまっていました。
主だった国際コンクールというのは出場資格があり、通常29~30歳までが多数なのですが、34歳の時に「第1回ブダベスト国際指揮者コンクール」に出場し、第1位になり、それをきっかけとして世界中からオファーを頂くようになりました。
――ご幼少時代、どのように音楽に触れる機会がおありでしたか?
NHKラジオなどで、子どものための音楽番組があったり、また子ども向けではありませんが歌謡曲を聴いていました。
そして、ある日、ラジオから何気なく流れてくるベートーヴェンの《第九》を初めて聴いた時、立っていられなくなり、涙が流れてきて「これは何なのだろう?この美しさって何なのだろう?こういう曲を作れる人がいるなら、僕にも作れないことはないかもしれない。作曲家になろう!」と思いました。
――その後、どのように勉強されたのでしょうか?
頭の中には何かしらの音が出てくるのですが、ピアノが少し弾けるぐらいでは、その音を楽譜にすることなんて到底できない、
しかし、したい、その繰り返しでした。
また当時、ベートーヴェンの《第九》を聴くにはレコードが8枚、それらを表と裏とをひっくり返して聴かなければならなかったのですが、勉強が疎かになることを心配する父親に見つかると怒られてしまうので、夜中の3時頃に起き出し、外灯を頼りにレコードの付録のスコアを見ながら聴いていました。それが、何とも言えない楽しい時間でした。
―― 藝大の作曲家を卒業された後、指揮科に入るまで、空白の2年間があったとおっしゃっておいででしたが、
その間どのようなことをされていたのでしょうか?
自宅で子どもたちにオルガンやエレクトーン、ギターを教えたりしていました。そして、少しずつ生活の糧を稼ぎながら、僕は何をしたらいいんだろう?と考えていました。
その時代は、ジョン・ケージの《3分44秒》のように、前衛的で新しいものを作ることが美徳だと言われるような時代でしたし、作曲をしても自分の作品をどこでどのように聴いてもらえるか皆目検討がつきませんでした。
そんな中で、ひょっとしたら自分は、大好きなベートーヴェンやブラームスなどの作曲家たちを演奏する側になった方が、作曲するよりも自分の才能を伸ばせるかもしれないと思いました。
そして、藝大を再受験するに至ったのです。
――その後、指揮科をご卒業し、「第1回ブダベスト国際指揮者コンクール」で優勝されました。
その経緯をご教示下さい。
通常、特に指揮者のコンクールは29~30歳までしか出場資格がありません。ですので、20代で才能を開花できない人は進むべき道がない、という厳しい現実がありました。
ですから、藝大卒業後、すでに30歳になっていた僕には、世界に羽ばたける門が閉ざされているような状況でした。もちろん、さまざまな方のお力添えで東京交響楽団の副指揮者になれたのですが、1年間に何回ものお仕事を頂けるわけもなく、演奏会を聴きに行き、客演指揮者の方々の指揮を見て勉強する日々でした。
そんな時、雑誌にブダベストで国際指揮者コンクールが開催され、しかも年齢制限が35歳までと書いてあるのを見て、応募しました。
しかし、それには応募条件というものがありました。
一つめは、3年間のキャリアがある者で、デビュー歴の提出がありました。これは何かというと、それまでに出演した演奏会でのプログラムを提出するものなのですが、これは条件をクリアしました。
二つめは、コンクールには課題曲が40曲あり、その中から審査をするというものでした。これは、例えるとベートーヴェン、チャイコフスキー、ブラームス、ドヴォルザークなどの交響曲全曲、なおかつ、どの楽章が課題として出るかわからないけど勉強しなさいというものなのです。
――その40曲のなかで、当時のマエストロが演奏できる状態にあった作品は、
何曲ほどだったのですか?
- 2曲でしょうね(笑)
――コンクールの条件を見た時点で、本番まで何日ほどあったのですか?
1ヶ月半ほどでした。ですから、お風呂に入っている間も、食事をしている間も勉強していました。
――このコンクールで優勝後、指揮者として国内外で素晴しいご活躍をされています。
指揮者というお仕事を、一言で言うとどのようなものでしょうか?
僕たちは、作曲家によって書かれた行間の光り輝くものを紡ぎ出さなきゃいけないんです。それが出来ればいいんですが、なかなか出来ない時には本当に申し訳なく、「嫌な仕事を選んだなぁ」と思いますね。
――では、オーケストラにおける指揮者の役割とは、どのようなものでしょうか?
まず、第1にオーケストラの表現を最大限に引き出すことです。作曲家によって書かれたものを、「とにかく、こういう風だと思います」と言ってお願いするのですが、オーケストラがその上をいって表現した時、最大限に引き出せたのかなと思います。
第2に、作曲家の意図を汲むことです。例えば、音の強弱を表す記号にフォルテ(=強いの意)がありますが、強いといっても、ただ強く大きくすれば良いわけではありません。その中には、高貴な響きや弦のやわらかい響きを感じながらの強さなど、さまざまですからね。
――普段の練習は、どのように行われているのでしょうか?
日本フィルの場合、定期演奏会のリハーサルに、3日間、12時間が用意されています。楽員は、それぞれ事前に練習をしていますので、初日の練習時には、ほぼ完全に曲を演奏できるようになっています。
しかし、オーケストラの演奏者は100人ほどがいますので、全員の気持ちを一つにするのが、指揮者の重要な仕事でもあります。そうすると、練習を積み重ねるなかで、みんながいい形で間合いをとり、同じ音づくりをするようになっていくのです。
――マエストロは、海外でもご活躍されていますが、
言葉の通じない国で指揮をするのは大変ではありませんか?
そうですね。大変だとお思いでしょうが、実は、オーケストラには言葉があまり必要ではありません。どういうことかと言うと、指揮者には振りというものがあります。そのため、例えば、私が祈るような仕草をすると祈りの音楽になるのです。
とはいえ、もちろん世界中をまわっていると言葉の心配がありますね。あるのですが、ありません(笑)
――マエストロが、心がけていらっしゃることがありましたら、お聞かせ下さい。
演奏者と聴衆がひとつになって、ホール全体が音楽に溶け込み、どうしたら至福の時を共有することができるかに集中しています。そして、音楽に合わせて自然に体が揺れ、オーケストラが奏でる音が聴く人の心に感動を与え、「オーケストラは素晴しいな」、「また聴いてみたいな」と思って頂ける演奏をすることを、常に心がけています。